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長い歳月を経て日の目を見始めた“松阪豚”

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CRAFTRIPライター

河合 雅士

松阪でも知られていなかった山越畜産による唯一無二の豚

全国的な知名度の有無に関わらず、“牛”と“鶏”は松阪の食文化として地域に深く根付いており、その歴史も長い。そうなると、“豚”は? という疑問がふと浮かんでくる。

牛肉と同様に、豚肉も国内に数多くのブランド・銘柄が存在しており、その数は数百にものぼる。三重県でも46戸(2021年現在)の養豚農家がおり、三重県畜産協会の「モグモグみえ」によると18のブランド豚を確認することができる。

松阪市にもブランド豚は存在し、市内にある山越畜産のみで生産されている“松阪豚”がそれに当たる。ただ注目される機会になかなか恵まれず、 市民の中でも知られるようになったのはごく最近の話。2009年に山越畜産の豚肉が、松阪牛と同じく優れた品質の豚肉であると推奨書が与えられ、地元産業等の活性化を図ることを目的として2018年に始まった「松阪ブランド」の認定を2020年に受けるなど、ここ10年ほどの間にその価値を認める動きが幾つか見受けられる

このように書くと「松阪豚」は21世紀に入って突如として登場した豚に思えるが、事の始まりは半世紀以上前にさかのぼる。松阪豚は山越弘一という養豚家が長い歳月を掛けて独自に作り上げた三元豚である。肉質はやわらかく、松阪牛を彷彿とさせるきめ細かな霜降りが特徴で、その脂肪融点は約37℃と人の体温で溶けるほどに低い。豚特有の臭みが無く、しゃぶしゃぶにしても“あく”が出てこない。

1940年に松阪市で生まれた山越さんは1967年に養豚業を開始。早くから海外に目を向けており、若いころから養豚先進国だったアメリカやヨーロッパなどへ海外視察に出向いた。そうして新しい技術を国内に持ち帰り、松阪市に開いた自らの農場で実践。1960年代に三元豚を中心とした交雑種の豚が国内でも普及し始めたころと同時期に、山越さんも交雑種の開発に着手。三元豚のみならず、四元豚にも挑戦した。しかし、納得いく答えを見出すことができず、最終的に山越さんが選択したのは、現在主流となっている「ランドレース種(Landrace)」と「大ヨークシャー種(Large White)」を掛け合わせた母豚に、「デュロック種(Duroc)」を掛け合わせたLWD三元豚だった。これが現在の松阪豚のルーツとなっている。

山越畜産で育てられているLWD三元豚・松阪豚
山越畜産で育てられているLWD三元豚・松阪豚

冷えたステーキが導いた松阪豚との出会い

松阪豚が今ほど認知されていなかったころ、人生をガラリと変える偶然の出会いを果たした女性がいた。

「実家を建ててくれた工務店の社長さんが、おばあちゃんに松阪豚を手土産に持ってきてくれたんです。それを家族全員でステーキにして食べたんですけど、当時の私は会社員をしながら夕方は焼き肉屋さんでも働いていて、その日は食べられなかったんです。私の分もすでに焼かれていて、翌朝に冷めた状態でお皿に置いてあって。それをお弁当に持っていこうと思って詰めていた時に、つまみ食いをしたら『あれ? これ、何の肉』って思ったんです」

ただ焼いただけの冷めたステーキなのに抜群に美味しい。そんな感動と同時に、違和感も覚えた。松阪牛のような感じがするけど、牛肉とは違う。でも、絶対に豚でもない。

「それでおばあちゃんに『これ何の肉?』って聞いたら、『松阪豚』って言うんです」

食べた感触としてはとても豚肉とは思えなかったこともあり、きっとおばあちゃんが間違えているんだろうと考え、工務店の社長にお肉を頂いたお礼がてら電話で聞いてみることにした。すると答えはおばあちゃんと同じく「松阪豚」。

「本当に豚なんや、ってビックリしました。一時期離れていた時期はあったものの、ずっと松阪に過ごしていながら『松阪豚』なんて聞いたことがなかったんです」

こんなに美味しいものが何で知られていないのだろうという思いが女性の中に沸々と湧いてくる。インターネットで調べてみても、いくつかそれらしきものがあるがハッキリとしない。何よりもこれだけ素晴らしいものがブランディングされていないことに合点がいかなかった。その思いを工務店の社長に伝えると、直接山越さんに話してみればいいと、顔を合わせる機会を設けてくれた。これが養豚家・山越弘一さんと、その後継者としてバトンを受け取った女性である橋本妃里さんが紡いでいくストーリーの幕開けだった。

山越さんの話に引かれ、気が付けば松阪豚の虜に

思いがけず山越さんと話す機会を得た橋本さんは、今後もこの縁が続くものだとは思わなかったこともあり、無礼を承知しながらも自身の正直な気持ちを山越さんにぶつけた。

「初めて食べた時、めっちゃ感動して、何のお肉か分かりませんでした。ブランディングされてないのも残念です」

すると山越さんから思いがけない言葉がこぼれてきた。

「後継ぎもおらんし、私の代で終わりやから、もうええんや」

橋本さんは戸惑った。まだ松阪豚と出会ったばかりなのに、いきなり終わりを告げられても素直に受け入れることなど到底できなかった。

「それで山越さんに『何でですか、もったいないです』って言ったんです。そしたら松阪豚について話し始めてくれて」

山越さんがどのような思いで松阪豚をつくり、育てようと思ったのか。その話はどれも、これまで豚のことなど何も知らなかった橋本さんの琴線に触れた。話の続きを聞きたくて、橋本さんは会社が終わると何度も山越さんのもとへ足を運ぶように。話を聞けば聞くほど、やはりこのまま松阪豚を終わらせるわけにはいかないと思うけど、どうすればいいのか分からず、もどかしい日々が続いた。

そんな時に橋本さんの松阪豚への熱量を感じ取った山越さんが橋本さんへ不意にこのような言葉を投げかけた。

「君は今まで誰もやらんことをやるかもわからん」

橋本さんの脳裏にその言葉がずっと残り続けた。松阪豚について知れば知るほど、松阪豚への思いは募っていき、橋本さんの中で特別な存在になっていく。気が付けば、山越さんから話を聞くだけではなく、勉強するという意識に変わっていった。

事業として現実味を帯びてきた松阪豚との関わり

まずは松阪豚を勉強するために、自分の手で肉をさばいてみようと考えた橋本さん。山越さんに紹介してもらった精肉店のスペースを間借りし、レクチャーを受けながらさばき方を学んだ。時にはYouTubeなどの動画配信サイトも豚の先生となってくれた。

「練習するにも肉を買わないといけないじゃないですか。でも私は普通の会社員だったので、1頭分は買えないので、半分だけ買うわけですよ。でも、一度ばらばらにしたら戻せないでしょう、練習したくても。

さばいた肉は近所や会社のみんなに配っていたんですけど、それを『すっごい美味しい』って言ってもらえて。次第に売ってほしいという声が出始めました。素人の私がさばいてもですよ」

唯一無二の松阪豚に情熱を注ぐ橋本さん。飽くなき熱意で松阪豚で事業化を果たした
唯一無二の松阪豚に情熱を注ぐ橋本さん。飽くなき熱意で松阪豚で事業化を果たした

手ごたえを感じ始めた橋本さんはさらなる行動を起こす。

「飛び込みで居酒屋に営業に行くようにしたんです。居酒屋に『1回食べてください』と無料で置いていって。そうしたらやっぱり美味しいって言ってくれて、取引してくれるようになったんです。そうなると、次第に会社で働いている時にも電話が掛かってくるようになりました。でも、私は仕事中なので対応ができない。次第に松阪豚を必要としてくれる人たちに迷惑がかかると思うようになってきたんです」

取引先は30件を超えるようになり、会社員を続けながら松阪豚に関わるのが厳しい状況になっていった。もともと利益度外視で、自身の給料を切り崩しながらやっていたが、現実的にビジネスとして成立しそうな気配も感じるようになった。そうして橋本さんは10年以上勤めた会社を退職し、起業することを決意。松阪豚と山越さんに巡り合ってから、2年ほどの月日が過ぎたころのことだった。

危機に瀕した松阪豚の存続を自らの手で

橋本さんは「松阪豚専門店 まつぶた(以下まつぶた)」を2016年に開業。当初は精肉部門のみだったが、1年後には総菜や弁当の販売も本格的に開始させた。

「最初は暇やろうと思っていたら、初めからめっちゃ忙しくて。オープンの日も並んでいただけましたし、お店がすごくはやったんです。本当に不眠不休といった感じで、最初の3年間は無休でしたね」

開店当初は2名のスタッフでスタート。思いがけない好スタートで繁盛した店を運営していくために、すぐにスタッフの増員を図ったものの、橋本さん一人で店を切り盛りすることも珍しくなく、人手不足はしばらくの間はつきまとった。

事業が軌道に乗っていけばいくほど、そのままにしておけない課題として突きつけられたのは、山越さんがいつまで松阪豚を生産してくれるのかということ。その懸念は少しずつ現実的なものになりつつあった。

まつぶたを開店した時点で70歳を超えていた山越さんの体調は万全ではなくなっていた。後継者を立てていなかった山越畜産は、山越さんが事業に関われなくなった段階で存続が難しくなり、すなわちそれは松阪豚の消滅を意味する。

ここまで橋本さんが進められたのは、松阪豚をこのまま埋もれさせたくない、多くの人に知ってもらわなければならない、という情熱があったからだ。

「私が第2の生産者になったほうがいいかもしれない」

山越さんが松阪豚を託すことができる人がこの先現れるとも思えなかったし、自分がやらなければならないという使命感の芽生えもあった。騎虎の勢いというのもあったのだろう。そうして、松阪豚を存続するために山越さんと橋本さんの間で、生産を含めた松阪豚の事業承継の話を具体的に進めることになった。

松阪豚は山越畜産でしか生産されていない希少な豚であるため、その承継は大きな課題であった
松阪豚は山越畜産でしか生産されていない希少な豚であるため、その承継は大きな課題であった

畜産農家が直面する事業承継の壁

松阪豚に関してさまざまな話は聞いていても、実際に生産現場に入って作業するという経験はなかった橋本さん。慣れないことばかりで苦労の連続だったという。

「山越さんは『簡単や』って言うんです、『3日でできる』って。いやいや、そんなんできませんよ(笑)。だから今も毎日山越畜産に通って、スタッフの皆さんに教えてもらっています」

事業承継する上で、一番の悩みの種は新しい農場のための土地探しである。豚に限らず、新規で農場を建てるのは、周辺住民の理解を得るのが難しく、難航するケースが多い。もともと農場だった土地を活用する場合も同じで、土地の所有者が売却する意思を見せても、最終的に頓挫するということを橋本さんは何度となく繰り返した。あまりにも見つからず、県外に土地を求めたことも。

「山越さんの体調が良かったころは、山越さんの人脈を頼って一緒に探していました。でも、なかなか見つからなくて……。そしたら山越さん、『どこでも一緒や』って言うんです。『どこでも一緒じゃないって言ったのは山越さんじゃないですか!』って親子喧嘩みたいになったこともありました(笑)。山越さんとしては『やらしてくれるところでやらな始められんやん』と考えていて、でも私は“松阪”豚としてやっていきたいので、『松阪じゃないと駄目なんです!』って」

しかし、山越さんの体調が悪化し、一緒に探しに行けなくなると、橋本さんは一人で探さなければならなくなった。光明を見出せない暗澹たる状況の中でも橋本さんが前へ進み続けることができたのは、手を差し伸べてくれる人たちがいたからだ。

「本当に困っていた時に助けてくれた人たちの中には松阪牛の生産農家さんたちもいました。『牛も豚もない』と言って、いろいろ紹介してくれるんです。私が松阪豚に関わるきっかけをつくってくれた工務店の社長さんも候補地を紹介してくれました。本当にありがたいです」

現在松阪豚を生産している山越畜産
現在松阪豚を生産している山越畜産

松阪豚を継承するということ

松阪豚を広めていくためのブランディングも少しずつ形になってきている。2018年に松阪豚は松阪市のハンズオン事業に採択され、松阪豚を使った新商品の開発と併せて、ブランディング戦略の策定とまつぶたのウェブサイトの再構築を行った。同時に東京を中心にさまざまなイベントに出展を行ったことで、松阪市以外へのPRと販路拡大を実現させることにつながった。今年は「特産松阪ひめ豚」の名で商標出願(2022年8月現在、審査中)を行い、ブランド豚としての地盤を着々と固めている。

ただ、一方で闇雲に松阪豚の生産を拡大させようと橋本さんは考えていない。大切なことを犠牲にして大量生産しても、それは山越さんの思いもしっかりと継承していくことにはならないからだ。

「松阪豚は少数肥育が前提として成り立っている豚なんです。肥育日数も220日と長いです(※一般的には150~180日程度)。血統にもこだわっています。山越さんと同じように、50年、60年後を見据えた畜産をやっていくためにも、需要があるからといって大量生産に踏み切ることは考えていません」

山越さんは橋本さんに自身が松阪豚をつくる時に込めた思いを次のように語ってくれたという。

「日本が高度経済成長期を迎え、日本人も飽食になって、贅沢三昧をするようになった。そうすると健康を害するようになり、次第に日本人は健康志向になる。そして食に美味しさだけではなく安心安全を求めるようになる。そして、いずれ豚肉の輸入が自由化されたら、外国の肉がたくさん入ってきて、それに太刀打ちしていかなあかん。その時に何件の農家が50年後に残るんだろうか」

山越さんがこう考えたのは、豚肉の輸入が自由化される前のことだという(豚肉の輸入自由化は1971年)。海外を見てきた山越さんの危機感はそれほど強く、先見性もあった。

山越さんが養豚を始めた当初は、海外から成長が早い豚が入ってきたこともあり、省コストで豚の大量生産が可能になった時代。だから数多くの畜産農家が農場の規模を広げ、多頭肥育に舵を切った。高度経済成長期によって日本は豊かになり、人口も増え、豚を育てていれば数多く売りさばくことができたが、いずれそれだけでは売れなくなることを山越さんは予見していた。

だから山越さんは大量生産ではなく、コストを掛けてでも一頭一頭手塩に掛けて、肉質の向上を目指し肥育日数を伸ばした。長い年月をかけて、飼料や肥育方法を徹底的に研究し、安心安全で美味しい豚肉をつくりあげることにこだわった。

この生産方法を橋本さんはそのまま継承している。

「少数肥育なので、場合によってはお客様に待ってもらわなければならないかもしれない。それでも価値を感じてもらえるようにしたいんです」

橋本さんが描く松阪豚の未来予想図

もちろん、利益度外視で経営を続けていこうというわけでは決してない。山越さんがつくり上げた松阪豚を未来に残していくためにも、肉質に見合った価格で消費者や飲食店に提供していく。価値を知ってもらうためにも、橋本さんはさまざまな計画を練っているという。

もし時代が繰り返されるのだとすれば、気になるのは橋本さんの後継者だが、「誰が候補で」「いつごろ会社を引き渡し」「いつ引退するのか」、それぞれ橋本さんの中ではすでに決まっているという。自身が受け継いだ松阪豚の火を絶やさないための種まきはすでに数多く進められている。

橋本さんが初めて松阪豚を知ったとき、その知名度は「松阪牛」や「松阪鶏焼き肉」とは比較できるレベルではなかった。今は山越さんや橋本さんなど、松阪豚に関わる人たちの努力が実り、松阪市民の中で知られる存在となり、全国でも知る人ぞ知る存在にまで成長した。でも、松阪豚の魅力を持ってすれば、もっと多くの人に知られていいと橋本さんは考えている。

「鹿児島の『黒豚』、沖縄の『アグー豚』があって、松阪豚がその次に名前が挙がるようになりたい」

橋本さんの松阪豚に掛ける覚悟と情熱を見ていると、決して夢物語ではないように思える。

参考文献

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