牛飼い、そそぐ陽光

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CRAFTRIPビデオグラファー

熊谷 拓郎

いま、和牛の一大ブランドである松阪牛が、窮地に立たされている。

松阪市飯南町深野。ここは、松阪牛発祥の地。私が訪問した7月は、緑に色づき始めた稲穂が、静かに風に揺られている季節だった。

深野への入り口は、中心市街地から30分ほど。車で国道166号線沿いを走らせると、里山の風情を感じる景観が通り過ぎていく。左手には櫛田川が流れていて、朝日が川面に反射しているのが見える。道の駅で有名な「茶倉駅」の道路標識を通り過ぎてすぐの道を右折すると、深野にたどり着いた。一気に勾配がきつくなり、平坦な道はほとんど無い。丁寧にハンドルをきりながら、細い道を通過する。上がったり下がったり。

しばらくすると、斜面にへばりつく様に建てられた、立派な家が見えてきた。坂を下った先には、小屋のような建物も見える。きっとあれは牛舎だろう。おそらく、カーナビにセットした住所で間違いないはず。停車すると、ガラス越しに一人の男性の姿が見えた。今日はこの人を撮るためにやってきた。特産松阪牛の肥育農家である田中秀治さんだ。

「道、分かりましたかね? 分かりづらいですからね」

夏の陽射しで肌が小麦色に綺麗に焼かれた田中さんは、とても丁寧に挨拶をしてくれた。牛の肥育農家イコール、屈強な体つき、と勝手にイメージしていたが、華奢な身体をしていて、そして想像以上に焼けている。

「いま稲の様子見てたんですわ。ちょっと待っとってもらえますか?」

そうか、稲作もするんだ、と思いながら撮影の準備をしようと車を降りる。心地の良い風が吹いている。気温も、中心市街地よりも低いかもしれない。

田中さんの方に目をやると、稲穂の中に埋もれてほとんど姿が見えなくなっていた。視線の先には、深い緑に覆われた山がそびえている。とても、気持ちの良い場所だ。ここで、特産松阪牛が肥育されているのか。

牛肉の国内消費量は外国産がほとんどを占め、その中でも和牛は存在感を失いつつある。しかも、和牛の農家さんたちは年々少なくなっていて、松阪牛も同じような状況らしい。特に、昔ながらの伝統肥育をしている特産松阪牛というのがあって、その農家さんはほとんどいないそうだ。

そんな話を聞いて、田中さんに会ってみたいと思った。

松阪市といえば松阪牛、和牛と言えば松阪牛。そんな周知の事実は当然知っていたし、ただ一方で、自分の知識はそこまでだった。取材前に分かったことは、深野から肥育農家がいなくなっているという事実と、特産松阪牛は、兵庫県で繁殖された子牛を導入し、長い肥育期間を経て出荷される特上の肉、ということだけ。いまの私にとっては単なる「肉」という認識でしかないが、撮影を進めるにつれて、この考えも変わっていくのだろうか。

田中さんがゆったりした足取りで戻ってきた。青いポロシャツに汗がにじんで、黒くなっている。

「すいません、お待たせしました。じゃあまずは牛舎で、牛に朝食取らせましょうかね」

「田中さんは朝食取られたんですか?」

時刻は朝の6時だ。気になって聞いてみる。

「いえ、牛が先ですから」

田中さんは、嬉しそうに牛舎の方に目をやり、「暑いな」と呟きながら、またゆっくりと歩を進めた。